なんでもよかったのかもしれない。ただ漠然と、何か新しいことを、新しい何かに、飛び込みたかった。
検索ボックスに文字を叩き込み、フィットネスジムを探した。その中から一番良さそうな所を選び、体験レッスンにほとんど突発的に申込みをしてしまった。新しい職場から比較的近い場所を選んだ。肝心の内容はというと、完全に映画の影響だった。
夕刻から出かけていくのはいつぶりだろう。
オレンジとブルーが混じり合う夕暮れ時がどうしようもなく美しいことを、今の今まで忘れていた。夜は刻々と近づいていた。
「あれはね、マジックアワーっていうんだよ。」
と、いつの日にか教えてくれた人がいた。空について教えてくれた人のことは、いつまでも覚えている。見る度に思い出しては忘れられないのだから、悔しくて忌まわしい。ただ、それとは無関係に美しさはただ目の前を流れ行く。
「黄緑色のドアを開けて、エレベーターで3階まで来てください。」
案内のメールにそう書かれていたことを思い出す。既に日は沈み、そこだけがライトで煌々と照らされていたため、瞬時にあれが黄緑色のドアだと分かった。
エレベーターの手前で1人とすれ違い、軽く会釈をした。一瞬ボタンの前で指が泳ぎ、3階のボタンを爪で押した。カチッ、とぎこちない音がした。
エレベーターのドアが開くと、目を見張った。一瞬で鼓動が早くなった。目の前には、高校時代の同級生3人が立っていた。
ひと言も発せず、気づかれていないことにしてしまった。もう帰りたかった。今すぐにでも、逃げたかった。しかし何から逃げたいのだろう。どこにも行けなかった。あの時も、今も。逃げたいのは今ではなく、過去なのだ。
これはただの体験で一度きりなのだから、今日だけにしてしまえばいいのだから、そう思い込んだ。
幸い、同級生とは別にレッスンは進行した。敢えてしばらく運動を控えていた体は、案外自分が思っていたよりも軽かった。それでもやはり次第に息は上がり、途中一瞬だけ嗚咽しそうになりながら夢中でミットを打った。Tシャツはじっとりと背中に張り付いていた。
レッスンが終わり外に出ると、茫漠とした夜が、現実が、ただ目の前にあった。
夜はこんなにも煩く慌ただしいビルや電子掲示板の光をひと纏めにしてしまうのだから、不思議だ。なにもかも飲み込んでしまう混沌とした夜に、自分だけが相容れないような、そんな気がした。みぞおちのあたりが不快なのは、疲れた体のせいなのか、それとも別な理由からなのか、よく分からなかった。