曇りの夜は暖かい

兎にも角にも朝が来たら起きなければいけない。

自分の嫌いなものが分からない

自分の嫌いなものが分からない。「自分が好きなことをやりなさい」とか、「自分が好きなことよりも嫌いなことを考えよう」とか、そいう言葉を本で目にすることが増えた。

自分が好きなことは少しずつ分かるようになってきた。それが分かればそれでいいとも思うが、私は自分の嫌いを少しだけ意識して生活することにした。

 

数ヶ月前のこと、自分が苦手なものを無意識にでも好きだと思いこんでいることがあるのかもしれないと思った。好きだと思っていることの中に、嫌いが混じっていることがあるかもしれないということだ。

私は小さい頃から体調を崩すことが多く、よく病院に行っては点滴を打ってもらっていた。先天性の持病があることが分かってからは治療のために入退院を繰り返し、数え切れないほどの採血や点滴で針を刺された。子供の頃、「注射は好き?」と周囲の大人たちに聞かれることが多く、注射は好きだと言っていた。実際、その時は本当にそう思っていた。

最近また、注射は好きかと聞かれることがあった。しかしもう好きだと言うことはできなかった。そうだ、本当は注射は嫌いだったのかもしれないとその時気づいた。できるならほんの少しの痛みでさえも感じたくないと思っている。けれど、何度でも痛みはやってくる。私の血管は細く、何度も針を刺した血管は固くなり、刺しにくいのだと医師や看護師は言う。血管は針を刺すようにつくられてはいない、そう思ったが、先月も10回くらい太い点滴針を刺し直されたのだった。子どもの頃は好きだった注射は、何度も何度も刺されるうちに嫌いになったのかもしれないが、子どもの頃はそれを好きだと思うしか治療に耐えられなかったのかもしれないとも考えた。自分の嫌いを意識することは案外難しい。

 

他にも、私はどうしても合わない人とでも仲良くしてしまうことがある。この世に自分のことを「好きな人」と「嫌いな人」と「どうでもいい人」は、「2:1:7」の割合でいるらしい。嫌いな人や気の合わない人がいるのは仕方のないことなのだ。だから、嫌いな人は嫌いと割り切ればいいのだが、嫌いな人を嫌いだと思えないところが私にはあった。嫌いな人とでも仲良くした結果、いままで散々な目に合ってきたというのに。いい加減、同じことを繰り返すのはやめようと思っているのだが、少し前までは嫌いだと思うことになぜか罪意識のようなものさえ感じていた。

だから、嫌いとは思わなくても、引っかかるものや違和感を感じるものについては、本当は嫌いなのかもしれないと思うことにして、スルーせずに立ち止まって考えることにした。以前までは、不快な思いをしたことを言われても、平気なふりをして笑っていたし、引っかかったり違和感を感じていても見ないふりをしていたのだ。その結果、ひどい目に合うことが多かったので、嫌いなものを認識することは、私にとっては訓練なのだ。もちろん、嫌いだからといって避けられないこともある。注射は治療のために打たなければならないし、最初から嫌いな人が分かっていれば避けられることもあるかもしれないが、嫌なものは突然やってくるものなのだ。

しばらくは、引っかかった言葉や違和感を感じるものについて、メモに書き留めておこうと思う。それを避けるかは別問題ではあるが、嫌いだと自分だけが認識していることに、なんだかとても意味があるような気がするのだ。