曇りの夜は暖かい

兎にも角にも朝が来たら起きなければいけない。

ハンガーラック

灰色や緑色から次第に派手なピンクやオレンジが増えていくハンガーラックの洋服を眺めていると、それは唐突に訪れた。

一体誰のためにこんなにおしゃれに着飾っているのだろう。それは無論自分のため以外に他ならないのだが、本当にそれは自分の好みが反映されたものなのか、よく分からなくなってくる。誰かや何かに植え付けられたイメージの中で生きているのではないか。そう思うと、どうにも厭になってくる。

いっそのことすべてを捨ててしまいたい衝動にかられる。それですべてなかったことにしてしまえるのなら。

 

2年前、何もかもいらないと思い立って部屋のあらゆるものを捨てたとき、残ったのはこの世に在るものへの執着だった。

人はこの世への執着さえ捨てた時、生きていけなくなるのではないか。他人から見ればただのガラクタや、くだらない一瞬の事象だとしても、それらを手放せば、執着ともいえる心の支えをなくすことにもなるのだろうか。

 

いつの日か、まだティーンエージャーのころ、「きれいに生きていけたらいいのに」と友人になかば冗談で言った。

「そんななのできるわけないじゃない。ずっときれいになんて生きていけるわけない。」とやや怒ったような口調で真面目に返されたので、それ以上なにも何も話せなくなってしまった。自分でもその時何が言いたかったのか、今でもそれはよく分からない。

「君たちはどう生きるか」

生きている者と死んでいる者、食べる者と食べられる者。

生きている者は死へと向かい、死んでいる者は生へと向かっている。

何かを食べて生きている者は同時に何かに食べられる者でもあり、食べられる者もまた別な何かを食べることで生きている。

 

子供は月日が経てば大人へと成長し、大人は次第に子供へと戻っていく。

 

生と死は常にどこにでも混在している。それは悲しみであると同時に慈しみでもあり、許しでもあるということ。何かを傷つける者は、同時に己自身も傷ついている。

朝、太陽が登れば月は沈んでいき、月が登れば太陽は沈んでいく。時間は常に動いていて、一瞬も止まらない。絶えず生と死を繰り返す細胞できたこの体の中を真っ赤な血が絶えず波打つ。それが止まる時、それは死を意味する。

 

眞人(まひと)。アオサギから「お前の名前からは死の匂いがぷんぷんする」と言われる主人公の名前。「眞」という漢字は自分の名前にも入っているので少しどきりとした。意味は、真(まこと)。死者を意味する。この世で唯一絶対的な真実があるとすれば、それは死なのだろう。

一瞬たりとも止まらない命。時間という現実が茫漠と過ぎていくこの世界で。

願い

今日は時間が止まってしまったかのように、街が静かだ。

マンションのアスファルトの影には、蝉が静かに張り付いている。

朝、ドリップコーヒーに入れるのは黒糖だったけれど、最近ははちみつを入れている。苦味とどろりとした甘さが、朝のぼやっとした脳と胃にゆっくりと染み渡る。

 

「この世界が二人だけだったらいいのに」

ドラマのセリフで男性が女性に言っていた。

もし、好きな男性にこんな言葉を言われたとしたら、胸が張り裂けるほどに苦しいだろうと思った。ただそう思う反面、本当にそうだとしたらどんなにいいのか、そう考えてしまうのだ。

人を好きになるという感情は、いつも傲慢で、我儘で、自分本位だ。人に対するとき、相手を通して見ているのは常に自分なのだ。

何も手に入るわけでもなく、何も望むこともなく、いつの間にか、この人のためなら持っている自分のなにかを差し出したいと思う。それは思いではなく、願いに近いかもしれない。それでも、そうだとしても、結局は自分本位なのだろうか。

1日が終わるのを待つ

この気持は一体何なのだろう。登山仲間から送られてくる山の写真を見ても、なにも心が動かない。腕には小さな蕁麻疹がぽつり。友人から送られてくるメッセージが、自分とは関係のない出来事のように、ただ目の前を過ぎる。

滑るように自分の考えや言葉が出てくる日もあれば、書いては消しを繰り返し、なにも書けない日もある。ここ数日は、とにかく何も書けない日が続いている。理由すら考えられない。

そういうときは、なにもせず、ただじっとその日が終わるのを待つ。明日を待っているわけではない。ただ、何もせずにいるということ。何もしないということをする時間。余白がないと人は生きていけないのだから。

繊細なはちみつ

鍋に豆乳を1カップ入れ、チャイのティーパックをひとつ放り込む。ごく僅かな火で静かに煮詰める。決して、煮立たせてはいけない。静かにその時を待つ。

夏の暑さでとろとろに溶けたはちみつをたっぷりと入れる。甘い香りがスパイスの異国の香りとともに引き立つ。

 

忙しく動いている脈を落ち着けるには、これがちょうどいい。私の中ではこれが一番疲れた頭と体を癒やす至福のときなのだ。

 

はちみつといえば、はちみつは繊細らしい。はちみつの入った容器を強く置くと、それが結晶の要因となり、硬化してしまうようだ。実家にいた頃、クマ型の容器に入ったはちみつを私が手にしようとすると、母はよく「やさしくしてあげてね」と言っていた。

 

たとえ何であっても、物を大切に扱う人を見ると、心が暖かくなる。

それはなぜなのかよく分からないが、そういう人を見ると、自分も物は大切に扱おうと思うのだ。

 

温かいチャイティーを飲みながらこうしてキーボードを打っていると、段々と眠たくなってくる。明日、仕事は休み。何をしようか、おそらくまた明日も仕事のことを考えるのだろう。

きのこリゾット

自分のことばかり考え始めると、疲れているのだなと思う。

 

今日は、何週間か前に特売で大量に買った玉ねぎを使って、きのこの豆乳リゾットを作った。こうして玉ねぎをみじん切りにざくざくと切っている時が、一番無心になれる気がしている。油断すると目が染みて痛いのだけれど。

 

大抵の物事は、自分と、相手と、その場の状況が絡み合っているけれど、疲れて視野が狭まると、なにか一つだけに固執して見えなくなる。

 

玉ねぎを炒めて、その間にひらたけとしめじを切る。塩は控えめに、にんにくとしょうがを少しだけ効かせて。玉ねぎの栄養は熱に弱いらしいということを知ってからは、玉ねぎを炒めることに少なからず抵抗感を感じるものの、毎回炒めずにはいられない。

 

何か一つに固執していては、他のことは何もできない。握りしめている何かを手放さなければいけない。でも、自分がいま、握りしめているものは何なのだろう。何も出てこない。そういう時もきっとある。だから、今日はもう眠りにつこう。明日が早く訪れるように。

仕事を休んだ日、2日目

ここ1週間食欲のない日が続いていて、徐々に1日のうちの食事がまったく取れなくなった日の夕方、38.6度の熱を出した。

熱を出すことは私の中ではよくあることで、例によって何の薬も飲まずに耐えしのぐのだ。1日中寝てばかりいると体中が痛くなってくる。首はがちがちで、腰も鈍く痛みだす。

今日、2日続いた熱が下がり、ようやく重い腰を上げて病院を探した。引っ越しをすると、新しい病院を一から探さなければならない。引っ越しの大変さは、引っ越しをしてから1年は続くような気がしている。きっと冬は暖房器具を買いに店を回るだろう。

4件ほど電話を掛けたが、3件は状態と持病を告げるとあっさりと「うちではみられない」と断られ、1件は電話すら繋がらなかった。こういうことは前にもあった。どうやら病院のたらい回しに合う運命なのかもしれない。

もういいかとも思ったが、2日仕事を休み、上司からはコロナ検査は自分の判断に任せると言われている以上、受診した方が無難なのだろう。

なんとなく最後だと思って掛けた病院は、一番親切に対応してくれた。すぐに診てくれ、持病のことにも理解がある先生だったのでほっとした。

ほとんど誰もがコロナウイルスではないだろうと思うような症状しかなく、先生もはなから疑ってすらいなかったようだった。「まだ検査結果出てないけど違うと思う。」

と言いながら、すぐに診察室へと戻ってきたのだ。

「少しは食べないとね。外は暑いし夏バテしちゃうよ。」

と先生は私のやせ細った腕を見ながら、本当に心配そうに言っていた。

いつの日にか自分の手首ぴったりに調整してもらった腕時計は、何度も何度も自分が見えるように文字盤をくるりと回すほどに、以前よりもずっと痩せていた。

 

どうにかこうにか生き延び、今月ももうすぐ終わろうとしている。

帰ってからは、突然思い立ったかのように生計を見直した。人は弱った時、なぜか検討もつかない将来が不安になり、家計を気にしだすものなのだ。そして、しばしの安心感に少しでも浸りたいのだ。

今日は洗濯したての布団で眠りにつく。

こういう時間が永遠に続けばいいのに、と思った。