働きたい、そう思ったのは4度目の治療がうまくいったからだ。何かを人生において成し遂げたいと思ったことはないが、やってみたいことはいくらかあった。ただ、そのやってみたいことというのは、働くこととは別のところにあった。だから、仕事において何をやりたいのかと聞かれると、返事に困るのだった。
仕事を辞めてすぐは、正直しばらくは働きたくないと思った。そう思うのは、生まれつき健康には恵まれなかったものの、衣食住には恵まれていた方だからかもしれない。「あなたは両親に愛されて育ったでしょう。笑った顔がそういう感じがするのよね。」
学生時代、その日初めて会った婦人にそんなことを言われたことがあるくらいには。
だからなのか、働くということは、他でもない自分のためであるが、そういうことが抜け落ちていた。なにかの中から選べるということは、2つ以上もあればとても贅沢なことのように思えた。
「好きなことを仕事にしました」「仕事は趣味の延長のようなもので」「やりがいのある楽しい仕事です」
生活のキラキラした部分だけが切り取られ、切り取られただけであればいいのだが、それがほとんど別なものに作り変えられていることはよくあることだ。人はときにだれかの幻想に惑わされる。見えているものや聞こえてくるものがすべてではないのだと、見えないものや聞こえないものの方がずっと多いのだということを何度も何度も忘れてしまいそうになる。
「世の中ってやりたくないことをやってくれてるひとたちで成り立っているって思うよ。」
しなければいけないことも、やらなければいけないことも、本当はなにもない。
近所のスーパーのおばちゃんたちは今日も買い物かごをせっせと消毒してくれている。遠いところに移り住んだ友人には、誰かが自分の代わりとなって手紙を運んでくれる。玄関前に届くダンボール箱ひとつには、一体何人もの人の手がかけられているのだろう。そんな人たちに思いを馳せた。
履歴書を書いた。